僕が先日、Xでポストした内容について読み返してみた。
どんどんどんどん思考が派生していったので、是非皆さんにも言語化をしてお伝えしようかな◎
※ラフな感じで書いていくんで…悪しからず
目次
子どもが何もしない時間を、大人はどうして待てないんだろうか?
Xのポストにもあるとおりですね、とある日、一人の子どもが学校から帰ってきました。
ランドセルを無造作にロッカーへ押し込んで、そのまま好きな遊びへ一直線。
床にゴロゴロ寝転がりながら、何やら楽しそうに遊んでいる。
この間、ものの数秒。
「ただいま」もなければ、こちらからの声かけに返事もない。
完全に自分の世界…
学校という戦場で戦ってきたあと… まぁ、そうなるよなぁ
なんて思いながら、その姿を眺めていました。
そんな僕だって、事務所に着いたら、まずお湯を沸かしてコーヒーを淹れます。
香りのいいコーヒーをゆっくり嗜みながら、PCの起動を待つ。
仕事を始める前の、あの時間
誰かに指示されるわけでもなく、何かを生み出すわけでもなく
ただ、自分のペースを取り戻す時間みたいな
子どもにとって、学校から帰ってきて好きな遊びに没頭する時間も、それと似たようなものなんじゃないかなぁと思ったわけです
そんなことを考えていた。
子どもは学校で、想像以上に「自分」を使っている
学校って、結構すごい場所やと思うんですよ。
朝から決められた時間に動いて、決められた場所に座って、決められた内容を学ぶ。
先生の話を聞く、友達との距離感を考える、周囲の空気を読む。
自分の気持ちを抑える場面もあれば、やりたくないことに取り組む場面もある。
もちろん、それが全部悪いわけじゃないですがね。
集団で生活することにも、学ぶことにも、大切な意味がある。
ただ、忘れちゃいけないのは…
子どもは学校にいる間、ずっと何かしらの要求に応え続けているということ。
大人でいうところの仕事に近い部分もあるよね。
だから帰ってきた瞬間くらい、何者でもなくていいんじゃないかな~と。
いい子じゃなくてもいい、頑張る子じゃなくてもいい、何かを学んでいなくてもいい。
床に寝転がって、意味のわからない遊びをして、ただ笑っている。
そんな時間があってもいいじゃんと。
療育施設にあるまじきことを言うているのかもしれませんけど、そんな余白も大事やと思うんですよね。
大人は、子どもの時間に意味を持たせたがる
ここが今回、一番考えたところ。
僕たち大人って、子どもが何かをしているとき、つい意味を探してしまうくないですか?
それってなんの意味がある?目的は?理由は?
そんなことを実際に支援者に求めている時も多いんですが…
この遊びで何が育つんだろう?この経験は将来どう役立つんだろう?
もっと成長につながることをした方がいいんじゃないか?
そんなふうにね。
もちろん、子どもの成長を願っているからこその発想なんだと思う。
でも、ちょっと不思議でもあるんすよ。
大人は疲れたら休みたい。
好きな音楽を聴きたい。
コーヒーを飲みたい。
旅行に出かけて気分転換したい・
何も考えずにスマホを眺めたい。
なのに、子どもが同じように自分の好きなことをしていると
「そればっかりやってないで」
「何か違うことしたら?」
「時間がもったいないよ」
なんて言いたくなる。
これ、なんなんだろうと
大人には許される余白が、子どもには許されにくい。
そんな矛盾があるような気がする。
「何もしていない」は、大人から見た景色でしかない。
床に寝転がって遊んでいる子ども、大人から見ると、ただゴロゴロしているように見える。
でも、本人の中ではどうなんだろう。
今日あった嫌なことを忘れているのかもしれない。
学校でずっと張っていた気持ちを緩めているのかもしれない。
好きな遊びに夢中になることで、ようやく自分の感覚を取り戻しているのかもしれない。
もちろん、本人に聞いても、そんな難しい言葉では説明しないと思う。
「楽しいから」
たぶん、それだけ。
でも、それで十分じゃない?
むしろ、その「楽しいから」が、ものすごく大切なんじゃないかと思う。
誰かに評価されるためでもなく、褒められるためでもなく、何かが上達するためでもなく。
ただ、やりたいからやる。
人間が本来持っている、すごく自然な欲求やんと。
それを子どもは、まだ当たり前のように持っている。
そして大人は、いつの間にかそれを忘れてしまっているのかもしれないですね。
余白って、余った時間じゃないんだよな
余白という言葉を聞くと、やるべきことを全部終わらせた後に残った時間。
そんなイメージがあるかもですが。
宿題を終わらせてから。
片付けをしてから。
明日の準備をしてから。
全部終わったら、自由にしていいよ。
もちろん、生活には必要なこともあるけどね。
でも、これだと余白はいつも後回しになる。
やるべきことが終わらなければ、余白は生まれない。
大人の生活だってそう。
仕事が終わったら休もう。
家事が終わったら好きなことをしよう。
余裕ができたら、やりたかったことを始めよう。
でも、実際にはどうか?
やるべきことって、次から次へと出てくる。
だからこそ思うわけです。
余白は、余った時間じゃなくて、最初から人に必要な時間なんじゃないか。と
子どもにとっても、大人にとっても。
子どもが自分で選べる時間は、思っている以上に少ない
学校では時間割があるし、家庭では生活のリズムがある。
習い事があれば、さらに予定が増える。
子どもの一日は、大人が考えた仕組みの中で進んでいくことが多いですよね。(実際僕の娘もそうです)
そんな中で、
何をするか、いつ始めるか、いつやめるか、誰と遊ぶか、どんなふうに過ごすか。
それを自分で決められる時間って、どのくらいあるんやろかと考えると…
僕は、ここに結構大きな意味があると思ってて。
自由な時間の価値って、単に休めることだけじゃないかなと。
自分の時間を、自分で生きられること。
結論、これが大切なんじゃないかなと思うわけです。
大人が用意した正解に向かう時間ばっかりじゃ、自分が本当は何をしたいのか、わからなくなることもある。
だから、帰ってきて真っ先に好きな遊びへ向かう姿を見ると、ちょっと安心するわけです。
あぁ、この子には今、ASTEPでやりたいことがあるんやなぁって。
見守るって、何もしないことじゃない。
子どもが遊んでいると、何か声をかけたくなる。
何をしているん?楽しいか?それどうやって遊ぶん?
もちろん、会話を楽しむことも素敵なことなんだけど。
でも、ときには声をかけないことも大切やと思うんですよね。
目の前の子どもが、自分の世界に深く入り込んでいる。
その世界を、こちらの都合で中断しない。
返事がなくても、すぐに反応を求めない。
何かを教えようとしない。
ただ、その時間が続くことを許す。
これって、案外難しいと思うんです。
だって大人は、何かをしてあげたくなるから。支援者なら余計そう思う節はあるんじゃないかなと。
でも…
子どもを大切にすることと、子どもの時間に介入することは、必ずしも同じじゃない。
ここは忘れずにいたいですよね。
必要なときには関わる。
困っていたら手を差し伸べる。
でも、子どもが自分の力で楽しんでいるなら、その時間を邪魔しない。
そんな距離感も、立派な関わり方なんだと思いますよ。
もしかすると、余白を必要としているのは大人の方かも?
ここまで子どもの話をしてきたけど、考えてみたら、大人も同じよね。
いつも何かに追われている。僕かて…
仕事、家事、人間関係、予定、連絡、やらなきゃいけないこと。
空いた時間がありゃ、何かを詰め込もうとする。
もっと学ばんと、もっと成長せんと、もっと有意義に過ごさんと。
そんなことを考えているうちに、ただ好きなことを楽しむ時間が少なくなっていってるような気はします。
だから、子どもが床に寝転がって夢中で遊んでいる姿を見ると、少し羨ましくもなるわけです。
この子たちは、今この瞬間を生きているんだなぁって。
何かのために遊んでいるわけじゃない。
将来のために笑っているわけじゃない。
今、楽しいから。
ただ、それだけ。
それって、すごく豊かじゃないですか?
子どもの余白を守ることは、その子の人生を尊重すること
ASTEPの子どもたちにも、自分の娘たちにも成長してほしい。
いろんなことを経験してほしい。自分の可能性を知ってほしいし広げてほしい。
その願いは、これからも変わらないです。
でも、そのために一日のすべてを埋める必要はないと思うんです。
何も予定がない時間。
何かを求められない時間。
誰からも評価されない時間。
ただ好きなことをして、自分のペースで過ごせる時間。
そういう時間があるからこそ、また次の一歩を踏み出せることもある。
少なくとも僕は、ゴロンと寝そべりながら遊びを楽しむ彼を見てそう感じた。
学校から帰ってきて、ランドセルを放り込んで、好きな遊びへ一直線に向かったあの子。
こちらの声なんて、まるで聞こえてない。
でも、それでよかったのかもしれん。
僕が事務所でコーヒーを淹れるように、あの子にも、あの子なりの切り替え方がある。
あの子にも、あの子の時間がある。
それを、大人の都合だけで奪いたくないです。
子どもの時間は、大人がすべて意味づけしなくてもいい。
ただ夢中になれる。
ただ安心できる。
ただ、自分でいられる。
そんな時間を、これからも大切にしていきたいです。
そして、ふと思う。
子どもに余白を与えられる大人でいるためには、僕たち自身も、余白を持っていなきゃいけないんだろうなぁと。
さて、今日もコーヒーでも淹れようか。


